日食供養塔(奥多摩町)


 日食供養塔は、東京都西多摩郡奥多摩町にある「奥多摩 水と緑のふれあい館」の敷地内にありました。この敷地内の一角は、小河内ダム建設にともなって、奥多摩湖の湖底に水没してしまった地域の石碑が集められていて、その中のひとつとして残されていました。

 こちらのページによると、元々は「東京都奥多摩字大原の恵日山門覚寺」の前にあったものが「出野バス停」付近に移動され、保存展示のために「奥多摩郷土資料館」の前に移転したとされています。

 その後この「奥多摩郷土資料館」は、1998年に、東京近代水道100周年と小河内ダム竣工40周年の記念事業として「奥多摩 水と緑のふれあい館」へと建て替えられました。この敷地内に、数多くの石碑とともに屋外展示されています。
 なお石碑が建立された詳しい事情は、わかっていないようです。

 
 石碑の最上部には、丸い「円」が描かれています。これは太陽を表していると思われますが、例えば金環日食とか何かなのでしょうか。

 
 石碑の右側には「寛政十一年」の文字が、また左側には「己未十一月」(つちのとひつじ)の文字が見られます。寛政11年は1799年にあたるようです。

 
 ちなみに画像ではわかりにくいですが、供養塔の下部には何かの文字が多数刻まれています。

当時見られた日食について

 多くの人も検証されていますが、この石碑が建てられたとされる寛政十一年、西暦1799年には、日本で見られる日食はありませんでした。以下に寛政年間前後で、奥多摩にて見られた日食をまとめます。

西暦 旧暦 奥多摩での最大食分 状況など
1786年1月30日 天明六年一月一日 0.985 最大食分98.5%の深い部分食。国内でも金環・皆既日食が見られた。沖永良部島・徳之島などで5秒程度の皆既日食。尾鷲〜岡崎〜八ヶ岳付近〜会津若松〜気仙沼のラインで金環日食。
1789年11月17日 寛政元年十月一日 0.500 最大食分50.0%の部分食。中国(清国)南部などで皆既日食。
1795年1月21日 寛政六年十二月一日 0.837 最大食分83.7%の深い部分食。国内では、九州南部などで金環日食が見られた。
1796年7月5日 寛政八年六月一日 0.601 最大食分60.1%の部分食。太平洋上で皆既日食。
1798年11月8日 寛政十年十月一日 0.529 最大食分52.9%の部分食。パラムシル島などで皆既日食。
1800年4月24日 寛政十二年四月一日 0.926 最大食分92.6%の深い部分食。国内では、房総半島などで金環日食が見られた。
1802年8月28日 享和二年八月一日 0.801 最大食分80.1%の深い部分食。国内では奄美大島や沖縄本島の北部などで金環日食が見られた。

※位置は北緯35度47分、東経139度03分として、GUIDE 8.0 にて検証。
※旧暦は Wikipedia を参照した。

 この地では、寛政十一年の前年までの4年間(1795〜1798年)で3回、食分が50%を越える部分日食が観測されています。また少々前(天明年間)ですが、1786年には食分98.5%の大変深い部分日食が見られています。
 寛政年間で最も深い日食が見られたのは、石碑建立の翌年にあたる1800年(寛政十二年)4月の日食で、90%以上太陽が月によって隠れました(房総半島などでは金環日食)。

 当方は古暦などに詳しくありませんが、寛政暦法は西洋暦法を取り入れており、例えば1800年の日食については、当時なんらかの予報がすでにされていたのかもしれません。古来、日食や月食は凶兆とされることが多かったため、比較的連続して起きていた部分日食や、来年に起こるであろう日食をおそれ、「供養塔」という形で石碑が建立されたのかもしれませんね。

 撮影日:2008年8月23日


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